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【本】私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活

私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活 樋口 直美

レビー小体型認知症と診断された著者「本人」による、病気に気づき自らが情報発信をしていくようになるまでの2012年から2014年までの手記。

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著者は、認知症をめぐる今の問題の多くは、病気そのものではなく人災と指摘する一方で、「本人」しか分からないものだからこそ発信をすると覚悟を決め、認知症になっても笑顔で歩き続けられることのできる道を作る1人として活動している。

一気に読んで、「自分のできることをやっていく(=人の役に立つ)」という最後の著者の「強さ(=やさしさ)」に心を打たれた。

以下は、自分の気持ちが動いた部分を引用。

  • 何をわかっていて、何をわかっていないのかよくわからない。今まで自然に把握していたことが、把握できていないということだけはよく自覚している。(中略)慣れていくのか、慣れていくのだろう。人間はどんな苦しみにも慣れてしまうのだから。

  • 今日、仕事でまた大きなミスをした。上司に問いただされて「覚えていません」というと「覚えていないわけがないだろう!」と言われた。同僚からは、「まだ若いのに何を言っているの?」(中略)もうダメだ。どんなミスをするかわからない自分が恐ろしい。

  • 進行を遅らせるために、(医師に)私にできることは何かと訊くと、「できることはないんです。今まで通りの生活を続けてください。家事をし、仕事をし、趣味をし、散歩をし。そういうことを今まで通り、というか、今まで以上にすることです」。全身の細胞が、その言葉を跳ね返しました。(中略)「自分で進行を止めてやる!」と闘志がわいてきました。

  • 病気だ病気だと思うのはやめよう。私は、悲しかったのだと思った。(中略)私は平静なのだと自分をだましていた。平静である訳がない。50才で仕事をする能力も体力も失って無色になったのだ。

  • 進行するのが怖い。体調不良も一匹の虫も計算を間違うことも曜日を間違うことも、それ自体は小さなことなのに、私の根拠なき信念を根底から揺さぶる。他に私を支えるものがないのに(中略)夫には、私の涙の意味は分からない。

  • 誰にも言えなかった症状を、初めて人に(テレビのディレクターに)詳しく話した。敬意を持って、真剣に聞いてもらえた。この病気に強い関心を持ち、既に相当勉強し、深く理解していることに驚く。レビーを紹介する初めての番組は、たくさんの人たちを救うだろう。(中略)私は救われた。すべてのマイナスが、一斉にプラスに切り替わっていく。

  • 認知症の人」「認知症患者」と呼ばれると、違和感も抵抗感もある。そのくらい認知症という言葉は、深く誤解され、既に広く侮辱的に使われている。「認知症の人は家族の顔まで忘れるんでしょ?」「認知症の人にそんなことわかるんですか?」「認知症の人でも花がきれいだなんて言うのね」「あの患者、認知だから」痴呆を認知症に変えても、誤解や偏見は変わっていない。(中略)そのスティグマをどうすれば消すことができるだろうか?

  • ずっとしなければと思っていたことを終えた。なのに何もうれしくなかった。(中略)レビーを取り巻く医療の問題が、何も変わっていないと感じるからだ。誤診や処方薬で悪化する患者が減っているとは思えないからだ。私は、この経験を無駄にはしたくない。絶対に。(中略)これからレビーになる人達のために道を作りたい。

  • がんになるとか体のどこが痛んでも「再発か!?」と怯えるという。認知症は、あらゆるミス、ど忘れ、一匹の虫の幻視でも「進行か!?」と怯える。再発は、死と隣り合わせ。認知症の進行は、同じ死でも「社会的死」か。家族を苦しめること、人格が崩壊したような言動をすることは、死ぬよりも辛い。

  • 覚悟することなのだと思う。(中略)逃げ腰だから、だめににある。肚をすえて正面から取り組めば、そうそう悪いことにはならない。(中略)人生の主人公として主体的に生きたのだから。

  • 認知症には、全然見えないですよね?」とディレクターはいう。(中略)私は強い違和感を覚えた。見えようと見えまいと、その病気であることに変わりはない。(中略)しかし、「あなたは認知症に見えないから映像は使えないかもしれません」と言う。(中略)なぜ脳の病気だけがここまで誤解され、偏見の目でみられなければいけないのか?

  • 「ミスしちゃダメだ!と常に思ってるから、余計疲れるんだ。「ミスするよー」と言って、笑っているっていう手もありなんだ。でもそのためには、病気を公表しないといけない。誤解や差別や偏見のある病気を公表するのは、本当に難しい。私はよくても、家族や親戚への影響、気持ちも考えなければいけない。でも、それを考えていたら、永遠に公表などできないだろう。

  • 「大丈夫」と言ってほしかったんだ。大丈夫じゃないと思っているから。(中略)「進行してボケて困るのはあんただ。あんたが進行しないように、祈っているよ」(中略)たとえ口先だけだって構わない。そういってもらえてうれしかった。(中略)実用性の有無に関係なく、それは、消えかけた命を延命する力を十分に持っている。

  • 自分の脳の中で起こっていること、体の中で起こっていることに集中し、耳を研ぎすませ、かすかな音を掴み、比較し、言語化し、主治医と一緒にかんがえていかなければいけない。でもその音は私自身にしか聞こえない。経験したことのない、どこにも書かれていない、誰も知らないことだ。どんな医師にもわからないと思う。この微妙な感じをわかれと言っても無理だ。私自身が、患者と観察者と治療者を兼ねなければいけない。

  • 他の人からは、その症状も気持ちも計り知れないのだろうと思う。

  • 「幻覚=思考力も判断力も知性も人格も人間性も失われている」とほとんどの人が誤解している。そうではないということ(MT野ニューロンの活性化による現象であることなど)を、本当のことを、私は、伝えなければいけないと思う。

  • 認知症=記憶障害=アルツハイマー病」ではない。認知症を起こす病気は多く、症状は異なる。レビーやピック病では、記憶障害がほとんどない人たちがいる。私は、これだけ広く深く誤解され、定義にも矛盾のある「認知症」という言葉は変えるべきではないかと思う。 本当に必要な答えは、当事者や家族が持っている。病と共に生きる毎日の中で、どんなことにどんな風に困り、それをどうしたら乗り越えていけるのかは、体験している本人や家族にしかわからない。優れた家族会は、情報と知恵の宝庫だ。

  • 大丈夫と約束された未来がどこにあるだろう。リスクを避けて、何もしないことで満足できる人生など、あるだろうか?(中略)私は、決めた。私は、私にできることをする。私は、堂々と生きていく。

私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活 樋口 直美